児童ポルノだのセクシーだのについてなんとなく思ったこと

えーと、内容としては、

うん、「セクシー」と「性的(セクシャル)」というのは明らかに違う概念になってきたのはよくわかるんだけど、どう違うのか説明するのって難しいよね(,,゚Д゚)matuken.wordpress.com 

の続きっぽいものになると思います。

 

話の元になるツイート、というかその図が削除されてしまったんだけど、美濃加茂市観光協会が「のうりん」とタイアップして作成したポスターにクレームがついて一部の掲示が撤回されたことに関して、どういうものがセーフでどういうものがアウトかという試案的なものがツイートされ、Togetterでもまとめられた(サムネイルにかろうじてその図の残滓が残っている)。

togetter.com

で、このまとめにもいくつか発言しているうちになんとなく思ったのだが。

 

まず。問題になったポスターについて。まずこのポスター絵について、「以前も使ったが全くクレームとかはなかった」「この絵はこのイベントのために描かれた絵ではない」「自分はエロいとは思わない」辺りを論拠にクレームを批判するのは、個人的にはあんまりよろしくないんじゃないかなーと思う。以前使ったといっても別にそれが免罪符なり無問題なお墨付きを得たというわけではないだろうし、このイベントのための絵でなくてもそこに使われたと言うことは事実だし、個人の基準をなんの説明もなしにして判断するのはちょっと危険だろうし。

では、そも、クレームに際して何が「エロい」と思われたのだろうか。

イラストの女性は、服装(作業着)の胸元が開いた状態になっている。で、頬が赤らみ目を潤ませ両腕を胸の下で合わせともすれば胸を持ち上げているようにも見える。

さて、ここで「このようなのは原作やアニメでの設定だ」というのも、擁護の理由として挙げられていたことを思い出した。上記のまとめでも「文脈というものがあり、それを無視してクレームするのはどうか」というのもある。で、確かにそれにも一理はある。しかし、それを理由としようとする場合には、その文脈がおおむね共有されている必要があると思う。例えば、駅や公園に裸婦の彫像が飾ってあったりしているのはエロくないのか、という話が良くあるが、あれらは彩色されていないなどもあるのだが、「そのような彫像は芸術であって、公共の場に設置されていてもよいものである」*1と、少なくとも現在の日本の社会では文脈が共有されている。

では、そういう文脈が共有されていない場合はどうなるのか。その場合、そこに描かれている表現や環境など、その絵が表示されている、そのことから得られる情報だけからしか判断されざるを得ないのではないかと思う。今回のポスター絵にしたも、例えば「このアニメにはこんな絵が出てくるんですよ」として出してこられたとしたら、それは「そのアニメの文脈とかを無視してある場面の絵だけを取り出して批判するのはどうか」*2と言えるが、イベントのポスターとしてあえて切り出してきた絵である以上、そこに描かれない文脈を理由に擁護するのは、やはり悪手だと思うのである。

うーん。やっぱりこの絵は「エロい」と思うし、それを「セクシーな表現」と言い換えても差し支えないと思う。

 

さて、ではクレームをあげてきた人たちは、「セクシーな表現」だからダメだといってきたのか。うーむ、本人達ではないから断言できないし、そうじゃないという人もいるかも知れないのだが、多分、「セクシーな表現」だからダメなんじゃなくて、「受容できないセクシーな表現」だからダメ、と言っているのではないだろうか。例えば、

togetter.com

にまとめられたうちのツイートにはこんなのがある。

 

ここで最初にあげたまとめでの「セーフな峰不二子とセフト(実質はアウトというような)な峰不二子の表現の違い」に戻るのだけど。

セーフな峰不二子は、身体の表現もさることながら、表情がまさに自信に満ちたような、少し意図的な表現に変えると、男に媚びていない、まさに「挑むような」感じの表情に読み取れる。対してセフトな峰不二子は、まさにおびえているような媚びてるような表情に読み取れるのである。

 

ではなぜセーフな峰不二子はセーフなのか、今回の「のうりん」ポスターはなぜアウトなのか、更に言うと、なぜ萌え絵は児童ポルノと見なされるとダメな表現だと言われるのか*3

煎じ詰めると、それは「セクシーな表現をしている該当者が、適切な自己決定によってそれを行っていると見なせるかどうか」と言うことではないか、と思うのである。

 

えーと、お前何を言っているんだ、絵の対象が自己決定によるってどういうことだ。そう言われてそうだな(,,゚Д゚)

うーむ。この辺りって、多分、諸外国で最近合法化されている売春の根本にある理屈、「成人が自己決定によって行っているかどうか」という点にも通じていると思う。「大の大人が、強制などではなく自分自身の決定で、安全で適切な環境で行う売春を、犯罪とするのはどうか」という奴ね。

で、従来の「性的である=Sexual」ということから概念が変わってきている「セクシー」ということは、この「成人の自己決定」というのがベースになっているとも思うのである。成人が、自分自身の決定で、最低限のドレスコード*4を守った上での自己決定での「性的=Sexy」な表現は両性共に許容されるべきものである。これは1960年代のミニスカート流行以降のファッションの潮流とか、スポーツとか様々な文化での「肉体の再認識」とでもいうべきルネッサンスの進行*5によりもたらされたものである。

この指向で重要視されているのは「成人の自己決定」であること、裏返すと、まだ自己決定できない未成人や、成人であっても強制されたりしたものについては、やはり許容されるべきものではない、いや、「成人の自己決定」による解放を却って仇為すものであるので、厳しく否定されるべきである、という状況になっているのが現在、2010年代の状況ではないかと思う。

 

そう考えると、欧米の異常なまでの児童ポルノとかSMBDへの嫌悪とかも割と理解しやすいんだよね。もちろん、リアルな児童ポルノについては実在の性的被害者がいるしその保護とか言うのもあるんだけど、自己決定でない(あるいはできない)性表現を認めることは、これまでの性解放、というか「セクシー」という概念を築いてきたものを崩壊させかねない。だから、実際に被害者がいるかどうかではなく、児童に見えるものや強制的ともとれる性的な表現は受容できないんじゃないかなぁ。

 

さて。では自分はどう思っているのかというと。

もちろん、実際の人物が(年齢に関係なく)性的表現などを強制されること、つまり「被害者がいる」ことについて許容できないのは当然の話ではある。ただ、萌え絵のようなものとかについては、TPO*6は考慮の必要はあるだろうけど、単にそれが許容されないポルノグラフィであるという意見には全く与しない。というか、「萌え絵」というのは、もしかしたら公的な場所への掲示基準の共通認識を将来にわたって変えていくかもしれないものとも思っている。

それと。未成人であってももちろん自我は持っており、成長するに従いそれは徐々に育ってくる。だからこそ、その成長譚は優れたコンテンツになるのであり、日本のマンガ・アニメが優れたコンテンツである一因はそこにテーマを持つ作品が多いことも考えられるのではないか。

 

そういえば、上記の話と同時に、こんなツイートがあり、大きな話題になった。

 この意見には全く与しない。吹奏楽器を男根の代用として安易に見なす*7点もどうかと思うが、なによりリンク先の「アニメスタイル」の表紙の少女達の表情をご覧あれ。強い意志にみなぎっているように見えないだろうか。これを単に脚の露出でポルノ扱いするのなら、それこそミニスカート流行以前の思想のままではないだろうか。

 

*1:ここで「エロくない」といわないことに注意して欲しい。エロいかエロくないかという点や基準の問題でなく、公共の場においてもいいことになっている、という点が重要だと思うのである

*2:児童ポルノ批判として今回出てきた「涼宮ハルヒの憂鬱」でみくると長門がまるで正常位のように倒れているシーンを出してきたのがあったけど、それこそまさにそういう文脈を無視して出してきている、あまりに酷い批判だったと思う

*3:言い換えると、なぜ児童ポルノはだめなのか、ということ

*4:女性の場合は乳首の露出とか性器の露出とかは、本当のプライベートな空間以外ではどこでもドレスコード違反になりますわな。

*5:そして、それは現在も進行中であると考えている。

*6:今回も、このポスター絵の公的な場所への掲示についてはこの話と別に検討が必要だと思うけど、また別の機会があれば。

*7:そもそも、楽器は女性名詞じゃなかったっけ。